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もう一つの物語

 秋田犬の物語は忠犬ハチ公があまりにも有名だが、もう一つ、世に知られていない"物語"が存在する。命の危険を顧みず、秋田犬を絶滅の危機から救った男たちの実話。その生き証人もこの世を去り、語り継げる人はもはや誰もいない。「このことは、後の世に記録として残しておくべきなんだが…」と前置きし、最後の生き証人だった方が当クラブに生前打ち明けた実話のあらましを、秋田犬ファンの皆さんにご紹介したい。

 敗戦色濃い太平洋戦争末期、兵器の材料となる鉄類が底をつき、金属に転用できる材料があらゆる所からかき集められた。大館駅前のハチ公像も、台座だけを残して撤収。犬もまた、皮を兵士の防寒コートや軍靴の材料にすべく片っ端から集められていた。ただ、シェパードだけは軍用として重宝がられていたため、別格の扱いだったという。

 昭和6年に日本犬で最も早く天然記念物に指定された秋田犬も、徴集の例外ではなかった。当時は一部の富裕層などを除けば日本全土が著しい食料難で、犬を飼育できるほどの余裕がある家は大館でも限られていた。秋田犬の本場ですら秋田犬の数は決して多くない中で、一気にその数は減り、ついには赤のメスがほんの2頭残るだけとなった。発祥地でもそうだったのだから、当時、全国にはもはやどこにも秋田犬はいなかったと察せられる。

 前述の2頭の名は「玉姫」と「玉桜」だったと記憶する。"彼女"らは、ハチ公の生家で暮らしていた。実話を明かしてくれた故人は当時、10代半ばの少年だった。晩年までハチ公生家から徒歩10分ほどの所に住み、その中の1頭の散歩をよく買って出た。

 いずれ2頭はほかの犬と同様、徴集されて、なめし皮にされる。そうなると、秋田犬はこの世から完全に途絶え、ハチ公の存在すら無に帰しかねない。秋田犬発祥地の誇りとして、秋田犬が絶滅する危機だけは避けなくてはならなかった。

 とはいえ、戦地に赴く兵士たちの外套などとして貴重な物資となる犬の中で、秋田犬だけがシェパードと同様に特別扱いされるはずはない。ハチ公生家と、事態を危ぶむ周囲の者たちは悩み抜いた。

 「絶対に殺させるわけにはいかない。山奥でこの2頭を守ってくれないか。すべての責任は私が持つ」。それがハチ公生家の主(あるじ)の決断だった。依頼を受けたのは、山奥に小屋を持っていた炭焼き人。

 大館(当時の北秋田郡下川沿村)生まれのプロレタリア作家、小林多喜二は拷問を受けて獄中、非業の死を遂げた。多喜二の場合は思想背景があるが、それとは根本的に異なるにせよ、国に背いて秋田犬を山奥でかこったことが憲兵に知れれば、やはり「非国民」として拷問を受け、最悪の場合は多喜二と同様の末路をたどったかも知れない。たとえハチ公生家の主が「すべての責任は私が持つ」といっても、万が一、炭焼き人が信頼の置けぬ者、あるいはほかに事実を知る者が憲兵に密告したら一貫の終わりだったはずだ。

 だが、炭焼き人は戦争が終わるまで、山奥でじっと息を潜めて2頭を頑なに守り通した。身の危険に対する恐怖は常にあったろう。「すべての責任は私が持つ」。その約束は計り知れぬほど重いが、見つかれば自分は無論家族にも難が及ぶ危険があったわけだから、双方によほどの信頼関係がないとあり得ない。そうした意味では、この実話は「ハチ公物語」に匹敵するほどの壮絶な内容を持っているといえる。

 やがて日本は敗戦を迎え、2頭の秋田犬は生家に戻ることができた。しかし、2頭はともにメスで、オスはどこにも存在しなかった。なめし皮にされる危機から逃れはしたものの、秋田犬の血が途絶えてしまうことに変わりはない。苦渋の決断。「シェパードと交配して、血をつなぐしかあるまい」。そこに礎を託しながら、脈々と秋田犬同士で交配を重ね、ようやく今の姿に回復させたのである。

 シェパードとの交配を裏付けるかのように、戦後は今とは似ても似つかぬシェパード色の秋田犬が存在し、進駐軍の兵士らが米国に何頭も連れ帰った。その名残が米国では今も色濃く残り、シェパード色またはそれに近い"秋田犬"も少なくない。鼻の周りがシェパードを想起させるかのごとく露骨に黒いなど、風貌も日本の秋田犬と異なることから、「Akita Inu」ではなく異犬種「American Akita」と呼ばれている。

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