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ひとしずくの涙

 テレビで観た不思議な番組。夫妻に可愛がられていた黒い犬が、夫の死後に少しずつ毛が白くなり、最後には全身真っ白になった。なぜそうなってしまったのか。特に愛情を注いでいた夫の死にショックを受けてそうなったのか。真相をつきとめようということになり、動物の言葉を理解できるという著名な女性が来日し、その犬と対面した。夫の死が犬の毛の色を変えてしまった、と妻は自分なりに考えていたが、夫の死後、ふさぎ込んでいる妻のことをその犬は深く心配しているのだ、と特殊な能力をもつ女性は答えた。

 犬は人間の言葉をどこまで理解し、飼い主など身近にいる人の様子、例えば元気がないといったことをどの程度感じ取るのだろうか。クルマにひかれそうな飼い主の代わりに飛び出して犠牲になった犬、熊など猛獣と闘って飼い主を助けた犬、暴漢から飼い主を護った犬など、そうした話は世界中に数多くある。犬が飼い主のために身を挺して犠牲になるのは、飼い主に対するどのような感情からそうするのだろうか。愛情なのか、信頼なのか、お礼の気持ちなのかは知りようもないが、特別な情なのではないかと思う。

 ある日のこと。ふだんから懇意にさせていただいている秋田犬オーナーが、ぽつりと言った。「最近、体調が悪い」。電話などで話していても、声に覇気がなくなったと感じていたが、不調がそうさせていた、と初めて気づいた。気持ちが不安定で、好物を前にしても食欲がわかないという。

 「あの人は昔から病院嫌いで、診てもらうよう奨めても耳を貸さない」と、翌日夫人は言った。「2、3日前から寝汗もひどいし、今朝などは全身汗でびしょ濡れだった」。医者に診てもらおうとせぬ夫に、どう向きあったらいいのか分からぬという様子である。体調不良は一向に改善していないのであろうが、秋田犬の運動だけは朝夕欠かさない。

 朝の運動から戻ってくる秋田犬オーナーを夫人と待っている間、犬舎の中にいる犬の1頭の顔を見て、はっとさせられた。泣いている。小さな真珠ほどの大きさだろうか。下瞼の下にひとしずくの涙。まだ水も用意していないし、水分は犬舎内のどこにもない。「これ、涙じゃないですか?」と、餌の準備をしている夫人に問いかけた。「ほんとだ、泣いてる」と夫人。犬の眼は、明らかに潤んでいる。「この犬は、人の気持ちが分かる。いつもそう思わされる」と、夫人はひとしずくを見つめつつ言った。

 生を受けた時から、この犬はオーナーから片時も離れたことがない、といっても過言ではない。夫婦はとりわけ、この犬に深い愛情を注いできた。6歳になる彼は、犬舎の代表犬。数頭いる秋田犬の中で、押しも押されもせぬリーダーである。「ほーれ、泣くな。あの人は、必ず病院サ連れて行くから」と夫人はタオルで、ごしごしと涙を拭いてやった。

 あの時、なぜカメラに収めなかったのであろうと後悔しているが、間違いなく、あれは涙だったと確信している。ならば、話をじっと聞き入っていたその犬は、主人の体調がかんばしくないことを知り、病院にも行かぬことを心配するあまり涙を流したのだろうか。

 「そうなのか?」と当の犬に訊いてみないことには分からないが、前述の"超能力者"でもない限り、常人に犬と会話をする能力などあるはずもない。夫人の落ち込んだ声のトーンや、どうやら主人のことを話しているらしい、とても良くないことらしい、と察知して泣いた、としか解釈できない。あるいは犬の側も「主人の様子がおかしい」と、はなから気づいていたのかも知れない。

 無論、犬は鳴くもので、人間のようにしくしく泣くものではあるまい。確かに、犬や猫が涙を流している姿はテレビで観た記憶はあるが、微動だにせず坐ったまま彼の眼からこぼれたひとしずくの涙は、声を押し殺す「男泣き」を思わせた。お目にかかることのない、不思議な光景だった。

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