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生まれながらにして"闇"の宿命を背負った世界的スーパースター、スティービー・ワンダー。追い討ちをかけるように1973年の事故で嗅覚、味覚さえも失った。その彼が秋田犬をこよなく愛するという話は、意外に知られていない。2000年のある出来事を紹介しよう。秋田県北部に住む繁殖者のもとに、ひょんな相談が舞い込んできた。「スティービー・ワンダーが、秋田犬を探している。何とかならないか」。繁殖者はかなりの年配のため、スティービーの名などつゆ知らず、その偉大さに後で腰を抜かすほど驚いた。 事の次第はこうである。スティービーには、幼犬のころから慈しんだ秋田犬がいた。その犬が老衰で息を引き取った。再び犬を飼うなら必ず秋田犬、と彼は心に決めていたらしい。米国"土着"の秋田犬は戦後間もなく進駐軍がつれ帰り、その子孫が今に至っている。一般に「American Akita」と呼ばれ、日本の秋田犬とは異なる種類に位置づけられる。事実、外観も日本の秋田犬とは明らかに違う。 「アメリカにいるのは本当の秋田犬ではない。秋田犬は日本にしかいない」と、スティービーは"秋田犬論"に強くこだわった。こういっては失礼だが、物理的に闇の中に閉ざされながら生きてきた彼にとって、傍目にはアメリカン・アキタでも秋田犬に"違い"はないと思える。それがまったく違うのだということを、彼自身が秋田犬から強く感じ取っていたのであろう。 私の代わりに日本へ飛んで、すばらしい秋田犬を探してきてくれないか、と彼は弟に頼んだ。兄の依頼を快く引き受けた弟は、ハチ公の古里にほど近い秋田県北秋田市(当時は鷹巣町)の大館能代空港に降り立ち、そこで朴訥とした秋田犬オーナーに初めて会った。いくつかの仲介を経て2人は出会ったわけだが、スティービーの弟は、空港にオーナーがつれてきた子犬を一目見て、兄貴だったら必ず気に入ってくれるに違いないと直感し、譲り受ける決意をした。
スティービーのもとに子犬が旅立ったのと前後するころ、チュニジアの大統領と外務大臣が、どうしても秋田犬がほしい、と秋田犬団体に要請してきた。事務局長(当時)は、"親善大使"としての願いを込めて2頭の子犬をチュニジアへ送り出した。旅立ちの日、輸送車に積み込まれる子犬たちに「元気でな」と手を振る事務局長の後ろ姿は、心から秋田犬を愛する人そのものだった。 秋田犬は、なぜそれほどまでに愛されるのか。ハチ公に代表されるような忠犬さゆえか。「1度秋田犬を飼ったら、もう別の種類は飼えない」とはよく聞く。洗練さではゴールデンレトリバーやラブラドール、ジャーマンシェパードなど洋犬に軍配が上がるように思えるし、室内犬と違って朝夕の散歩も楽とはいえない。それでも、スティービー・ワンダーやヘレン・ケラーがこだわったように「秋田犬でなくてはならない」のはなぜなのか。何のことはない。そのすばらしさは、飼育者や接した人にしか分からないのである。1度暮らせば虜(とりこ)になる。まぎれもない、それが秋田犬の魅力。 複数の日本一犬を世に送り出してきた秋田県能代市の老オーナー。手塩にかけて育て、本部展で最高の栄冠を勝ち取った犬をある日散歩させていた。犬が田んぼのあぜ道近くで、偶然何かを口にくわえた。農薬。あれほど大切にしていた犬の、あっけない幕切れ。「死んじまった。農薬、喰って……」。その言葉は何ともせつなく、悲しげだった。 自分が産んだ子犬以外の子犬が乳をせがもうものなら、すさまじい剣幕の犬。方や、分け隔てなく乳を与える犬、と秋田犬にも性格の違いがある。「あいつほど心のやさしい犬は、半世紀の秋田犬人生の中で後にも先にもなかろう」と老オーナーは口ごもった。犬の散歩中に引き綱に足を引っ掛けて転倒、骨折し、長い間、リハビリで病院通いを強いられた。 それほどの経験をすれば、普通なら秋田犬の飼育にさじを投げてしまうだろう。だが、そうではなかった。心底、秋田犬に惚れている。「秋田犬にばっかりカネを使い、女房にも苦労をかけた。けど、秋田犬とともに生きてきたことに悔いはない」と言い切る。真の「秋田犬馬鹿」。そこまでできる人は、秋田犬飼育者の中にもそうはいない。それぞれの秋田犬。そこには、それぞれのドラマがある。 |