|
2015年11月現在、前年4月の消費増税からの立ち直り傾向もみられ、国の政策なども背景に日本経済は回復基調にあるようだ。増税直後は、消費者も食料など日用品におカネを回すのが最優先で、贅沢品は極力買い控えるなどの自己防衛策を取る傾向が強まっていた。回復基調が強まるにつれ、「ぜひ秋田犬を飼おう」という機運も増税以前のように高まってきたように見受けられる。 ただ、懸念されるのは大切な家族の一員だったであろう秋田犬を捨てるケースが依然として後を絶たないこと。「○○県では秋田犬を捨てる不埒な人が多いそうだ」との噂が立つと困るため、あえて県名は明かさないが、関東のある県では秋田犬が保護される例が相変わらず目立つという。 秋田犬発祥地に住む者として、「秋田犬が捨てられた」との話には胸が痛む。無論、秋田犬以外なら痛まないということではない。秋田犬の発祥地であるがゆえに、大館市は「犬都」と呼ばれることもある。その言葉には、犬種を問わず犬を大切にする精神が込められていなくてはならない。だが実際は、前述の"関東のある県"だけではなく、ここ大館市でも犬は捨てられ、保健所には秋田県動物管理センター送りを待つ抑留犬たちが少なからずいる。 経済的な事情や「飽きた」「飼うのが面倒くさくなった」などいくつかの理由で、家族の一員として楽しさも与えてくれたはずの犬を捨てるのであろうが、将来的に捨てる可能性が1%でも否定できないなら初めから迎えないでいただきたい、と願うのは誤りであろうか。賛同してくれる方が圧倒的多数と思うが、中には「私がおカネを出して買ったのだから、捨てようが何しようが、私の勝手でしょ!」と、平然と言ってのける人も全国には少なからずいる。そうした人々を説得するのは、不可能に近いほどむずかしい。 大館市のある集落で、親子の虎毛の秋田犬を保健所が捕獲した。飼い主を探し出し、受け取りに来させた。それからほどなくして、「あの犬の親子がまた野放し状態でうろついている。何とかしてほしい」との要望が、町内会長から寄せられた。保健所が再び出向くと、親子はげっそりとやせ細り、逃げるふうもなくみずから近づいてきたという。 保健所はたっぷりと説教をしたが、「食べさせるカネがない。処分してほしい」と飼い主は受け取りを拒否した。個人を特定できない程度に明かすが、当の飼い主は大館市が合併する前の旧町の名誉町民で、ある分野ではとても有名な人物だ。その分野で大きな功績を残したがゆえに、一般住民の規範となるべき名誉町民にもなった。"新"大館市になっても知る人は多く、その業績は今も"形"として多くの人たちの目に触れる。 筆者もこの人物とは複数回、盃を交わしたことがあり、ある時、「うちの愛犬たちへのみやげだ」といいつつ、居酒屋で大きなマグロのカマの食べ残しを店主に包んでもらっていたのを憶えている。なぜ、それほど犬たちに愛情を注いでいた人が、「犬を食わせてやれない」という理由で保健所に捕獲させることができたのか、何年も経った今でさえ理解に苦しむ。あの"愛情"は、単なる"仮面"だったとの結論にしかたどり着かないのである。人に愛されて生き続けたかったであろうあの親子の命は、もうこの世に存在しない。全国で殺処分される犬は毎年減少の一途をたどっているものの、環境省がまとめた最新の集計では、25年は10万頭の命が絶たれた。それら命のほとんどは、人間の身勝手によって葬られていく。 犬を迎えること、とりわけ秋田犬のような大型犬は、子犬の姿を見て「カワイイー。飼いたい」という安易な気持ちで迎えられるものではない。同様に、小型犬も「ヌイグルミみたいで、超カワイイー」という気持ちだけで迎えられるものではない。そこには命があり、魂がある。"軽い"気持ちで迎えるから、"軽い"気持ちで捨ててしまうのであろう。だからこそ、殺処分させられる数が依然として膨大なのだ。 当クラブでは「ぜひ秋田犬でなくてはならない。それも本場から迎えたい」という、強いモチベーションの皆さんにのみ子犬を旅立たせている。2000年の事業開始から、捨てられたなどという悲しい話は1度も聞いていないし、少しでもそれが懸念される方には送り出したこともない。事前のやり取りで、どのような方であるか、"空気感"のようなものが伝わってくる。だから、送り出して後悔したことはない。「この子はペットではないですよ。この子の生涯にわたって、大切な家族として愛情を注いであげられますね」と念を押してお迎えいただく。旅立ちの朝、別れのつらさに人知れず涙を流す提携オーナーもいる。それほど大切な命なのである。大正13年(1924年)に、当地からハチ公が旅立ったときの飼い主の気持ちと、21世紀の今でもそれは何ら変わらない。 犬を捨てるようなことは、くれぐれもしないでいただきたい。どうしても一緒に暮らすことができなくなったら、捨てたり保健所に持ち込んで殺処分させるようなことはせず、引き継いでくれる人がいないか、友人や知人、血縁などに相談する努力を惜しまないでもらいたい。また、インターネット上で呼びかけたら、誰かが「ぜひ私に」と名乗り出てくれるかも知れない。殺処分のほとんどは窒息死である。安楽死などではない。いかに苦しいか、自分に置き換えて想像すべきであろう。 自殺願望者はともかく、ほとんどの人間は可能な限り生き永らえたいと願うはずである。犬も人間と同様、生きたいはずだ。命あるものを生かすことに、人間としての徳があるのではないか。いや、「徳」を語る以前の問題で、ともに暮らす命を生かすのは「常識」の範疇であろう。それができない人は、必然的に「常識が欠落している」ということになる。昔も今も、犬は人とともに生きてこそ幸福なのではないか。くどいようだが、絶対に捨てないでいただきたい。 |