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秋田県大館市に、1頭の虎がいた。名前の一字に雲がつくので、さしあたり「雲」と呼ぼう。彼の父は、初めての展覧会で東北・北海道総支部展に出陳し、他を寄せ付けぬ圧倒的な強さで特優1席を得て、いずれは本部展名誉章、と呼び声の高い犬だった。今は神戸に住む、ごく普通の愛犬家のもとで暮らしている。「雲」も将来を嘱望されていたが、成長過程の最も大切な時期に、人間不信に陥った。オーナーは、飼育歴の浅い知人に「雲」を預け、経験を積ませる意味で管理を任せたのだが、それが仇(あだ)になった。
知人の犬舎は、典型的な住宅密集地にある。車庫の一角にゆったりとしたスペースの犬舎を持っているのだが、知人は近くに住む老人がひんぱんに、犬舎の中の「雲」を杖で突ついていたのを気づかずにいた。その行為によって彼は、ひどく人間を嫌うようになった。知人を威嚇するようになり、時おり会いに来たオーナーにも吠えるようになった。なぜこうなってしまったのか、初めのうちは誰にも分からなかったが、近所の者の話で近くの老人による虐待が判明した。 事の重大さを悟ったオーナーはみずからの犬舎に「雲」を戻し、健全な性格に立ち戻らせようと、あらゆる手を尽くした。惜しみない愛情を注ぎ、1年を費やして「雲」との信頼をようやく回復させた。だが、彼が心を開くのはオーナー夫妻に対してのみで、他人には威嚇するように犬舎の中から吠えた。 来訪者の多くは、いくつも並ぶオーナー犬舎の中で「雲」にだけは近づこうとしなかった。ほかの犬たちには手を差し出して舐めさせる。「雲」はそれをじっと、見つめていた。恨めしそうに、という形容がふさわしい眼で。そんなとき、オーナーは彼に手を差し出すのを忘れなかった。分け隔てなくお前も愛しているのだ、ということを身をもって示すためである。「雲」は甘噛みをしながらオーナーに甘えた。
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特優1席受賞後の「雲」 |
犬舎では、オーナー夫妻以外容易に人を近づけない「雲」だが、父のすばらしい素質は十分に受け継いでいた。支部展に2度出陳し、いずれも文句なしの1席。そして、2歳になった彼はやがて、東北のある支部展に参戦した。狙うは特優1席のみ。「よくなってきたが、まだまだだ」と、支部展の数日前に話していたオーナーだったが、父と同様、他を圧倒して特優1席を獲得した。特優1席は、いわば名誉章への登竜門のごときものである。全国の熟練者が最もほしい賞の一つだが、しのぎを削る戦いの中でこの賞を得るのは、支部展といえども至難の技だ。
ふだんはあまり落ち着きのない「雲」だったが、展覧会場では悠然と立った。無論、誰にも吠えない。かつての姿を知る犬仲間たちは「あの犬が、この犬か?」と、信じられずにいた。審査員が真っ先に名を呼んだ。最も優れていることの証し。少なからず本部展名誉章犬を世に送り出してきたオーナーも、「雲」の姿には驚くほどだった。 オーナー夫妻以外、誰も振り向いてくれなかった。そんな「雲」が燦然と輝く唯一の舞台が展覧会場であることを、彼は誰よりも知っているかのようだった。「見返してやる」。そう、いわんばかりに。それは、優れた父の血を受け継いだ虎の意地なのかも知れない。「彼は株を上げましたね」。そういうと、「そうだなあ。やっぱりこいつはいい犬だ」と、苦労など微塵もなかった顔で、オーナーは笑ってみせた。 |