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ある展覧会の風景

 秋田県大館市で開かれた、ある年の秋田犬本部展覧会。そこで、当クラブから子犬を迎えた二つの家族が初めて顔を合わせた。東京都練馬区の早川大介さんご夫妻と、岩手県北上市の五十嵐育弘さんご家族。早川さんはこの展覧会に出陳すべく地元支部に入会し、愛犬の空(そら)号で本部展幼犬A組牡の部に参加した。五十嵐さんは「本部展に那由他(なゆた)を連れて遊びに行きます」との便りを以前からくれていた。

 対面するや、さながら旧知の仲でもあるかのごとく、両家族はすぐに打ち解けた。2頭の秋田犬の存在が瞬時に、垣根のようなものを取り払ってくれたのだろう。2家族が出会って直後、次から次へと人々が空と那由他のそばへ寄ってきては頭や体を撫で、彼らと一緒に写真を撮ったりしていた。不思議なことに、2頭の秋田犬に吸い寄せられる人々の顔は、どれも穏やかな笑みをたたえている。恐らくそれは、秋田犬が本来備えている、人の心を和ませる何かがそうさせているのではないか、と思えた。

 昼時、本部展会場のそばに敷かれた大きなシートに腰をおろし、秋田犬団体の会員やその家族たちが土地の名物「きりたんぽ」を、歓談しつつ頬張っていた。早川さん、五十嵐さん家族もその場に誘われ、土地の料理を味わった。近くにつながれた2頭の秋田犬は相も変わらず人に囲まれていたが、やがて早川さん夫妻から7、8メートルほどの位置で空が吠え出した。彼は夫妻に、視線を投じつつ吠えている。「なんで、ぼくだけひとりぼっちにして、ご飯食べてるの」。そう呼びかけているように見えた。「寂しがってる」。夫人がそういうと、早川さんは紙どんぶりに残ったきりたんぽをたいらげる暇もなく腰を上げ、空のもとへ駆け寄った。「寂しがってる」。空と寝起きをともにしている夫人のその言葉は、的を射ていたのだろう。早川さんが腰を上げると、空はすぐに鳴きやみ、尾を振った。

 午後の総合審査は、早川さん夫妻と空にとって展覧会で勝つことの難しさを痛感させる結果となった。「本部展を経験できただけでいいんです」と語る夫妻の口からは、さほど落胆の様子はうかがえなかったが、気落ちをしていないといえば嘘になる。会場で前オーナーは早川さんにいった。「3カ月、私に預けてみなさい。展覧会用の犬に、立派に仕上げてあげるから」と。秋田犬界屈指の名オーナー。何頭もの日本一犬を世に送り出している。

 空が本部展に出ると聞いたとき、前オーナーは「だめだよ、家の中で暮らしてるんだから。勝てるはずがない。出すのを思いとどまらせるよ」といっていた。自分の犬舎ゆかりの犬が1席以下のランクでは、半世紀に及ぶ秋田犬人生に傷がつくと感ずるほどの、生粋の"秋田犬人"。にもかかわらず、早川さんにあえて参加を許したのは、まぎれもなく前オーナーとしての優しさである。実は、早川さん夫妻も参加にあたっては直前まで悩み続け、「自分たちの管理のまずさで空が悪い成績を取ったら申し訳ない」と、大会事務局に供覧犬に変更してくれるよう要請した。しかし、事務局が「審議」の結果、これを受け付けなかったため、結局出陳せざるを得なかった。

 「今はまだ出る時ではない。やめなさい」。飼育歴半世紀のそのオーナーに忠告されると、後輩や仲間たちはそれに従う。秋田犬の世界で最も厳しい審査員として恐れられてきた彼の眼に狂いはないことを、誰もが知っているからである。早川さんのようなケースで参加を許可したのはまさに異例だが、早川さんとは別に、「犬が立たないじゃないか。参加は見合わせなさい」という前オーナーの忠告を振り切って出陳した北関東の飼育者がいた。「犬が立たない」というのは、何らかの理由で体調不良を起こし、立ち姿にまったく覇気がない状態だ。「この子はどこにもやらない。すばらしい素質を持っているから」とオーナーがいつも自慢していたメスだったが、飼育者はやっとの思いでその逸材を手に入れた。関東総支部展でも、「やはり、あの人のところで生まれた犬か。すばらしい」と審査員らにため息をつかせたほどの犬。が、必要以上に走り込ませて膝関節を痛めたらしく、最悪の状態で参加して惨憺たる結果に終わった。ベテランの忠告に耳を傾けない者は必ず失敗する見本のような一例だった。

 「3カ月、私に預けてみなさい」。前オーナーの申し出を、早川夫妻は丁重に断った。そのオーナーには独特のトレーニング法がある。「預けてみなさい」は「この犬は勝てる」を意味する。だが、夫妻は展覧会犬に変貌する空の将来の姿より、1分、1秒でも長く空と時をともにする方を選んだ。前オーナーは彼らのそうした気持ちすら、口にする以前から見抜いていたろう。だからこそ前オーナーは、こう結んだ。「大事にするんだよ。家族として」。

 本部展がクライマックスを迎えようとする時、大柄な虎オスが空の眼前で挑発的な態度をとってみせた。後ろ足で幾度も土を蹴散らしている。土が飛ぶどころか、生えている草まで抜け飛んだ。犬というより、さながら馬か牛のごとき勢い。こうした行動は確かに犬の習性の1つだが、ここまで勢い良く土を蹴散らすのは、秋田犬でも珍しい。筋肉の発達が誰の目からも見て取れる。この土地で暮らす彼の名は天重丸。飛んだ土が立て続けに、空の眼前に舞い降りた。「なに、するのさ!」とでもいっているかのように、空が天重丸に吠えた。早川さんが空の綱を引く。「若えの、待ってな。頭を取って来るからよ」と天重丸は、無言で告げているかのごとく空に一瞥をくれ、ベテランハンドラーに引かれて成犬の部会場へ吸い込まれていった。

 20分後、天重丸は胸をそらせつつ戻ってきた。名誉会長賞の栄冠を引っさげて。人間の世界にもあるように、秋田犬の世界にも「貫禄」がある。空に土煙を浴びせた天重丸は、まだ若い彼に、無言で伝えていた。「お前も早く、一人前になれよ」と。

追記:文中の空号と那由他号は今コラム掲載の数年後、ともに永遠(とわ)の旅路に就いた。

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